母のこと・1

私の母は今年4月15日に帰らぬ人となりました。
ちょうど3年前の4月にがんが発覚し手術、それから昨年末まで放射線療法や化学療法(いわゆる抗がん剤ですね)で病気と闘ってきました。
母のことはママと呼んでいたのでママ表記で書かせてもらいます。

あ、やばい
と思ったのは今年の正月でした。
台所に立つのも辛そうで、家族で元旦に近所のお寺に初詣に行ったときも、パパの腕をつかみながら、休憩を挟みながらやっとこゆっくり歩いていました。
何も知らなかった私と弟はスタスタお寺に向かって歩き、おや、パパとママがついて来ない、と振り返ってみたらそんな様子で、正直面食らいました。
だって、10月に会った時はいつもと変わらない様子で、大好きなワインだって飲んでたじゃないかと。
それでも、正月の食卓には例年と変わらないママのお雑煮と煮物が並んでいました。
 
3月の初旬、パパから連絡。
腎臓から膀胱へ尿を流す管が詰まってしまい、下半身のむくみが増大し歩けないほど。シャントを入れる手術のため入院をするとのこと。
つまり、腎臓から膀胱に人工の管を通して流れをつくり、むくみを取ろうということです。
入院は10日ほどで、退院の日、私も札幌で働いている弟も迎えに行くことにしました。
さて、迎えに行ったら病室にママの姿がない。
どこに行ったかと思えば、違う階に入院していたママの幼馴染の娘さんの病室で楽しそうにおしゃべりしていました…元気そうで何より。
ママは既に車椅子の操作に慣れきった様子で自分の病室に戻り、支度をして退院しました。
この入院の間は、Instagramに病棟から見える夕焼けと富士山の写真をアップしたり、比較的まだ何かをする余裕があったんだと思います。
家に帰ると、リビングの真ん中にデーンと介護用ベッドが用意されていました。
今はまだ足のむくみもあり、動き回れないのでレンタルで用意したとのこと。
正直この光景はちょっとショックでした。
つまり、要介護の状態になりつつあると。

その日は私と弟で夕飯を作り(私が肉じゃがをつくり、弟がサラダ、それから札幌で買ってきてもらったホッケ)、久しぶりの家族4人での夕食をとりました。
これが、パパ、ママ、私、弟、それから犬のまめちゃん、みんなで揃ってご飯を食べられた最後の日でした。

それから私はパパと相談し、勤め先にも了承を得て週の半分は実家に帰りご飯を作ったりママの身の回りの世話をすることにしました。
これからは私が週の半分実家に帰るから、とLINEすると、ママから、すまないねぇ〜、でも体が動かないもんで…お願いします!と返ってきました。
これにもショックを受けました。
ママは、今まで私が◯◯しようか?と言っても、ハラペコが大変だからいいよ!ママのことは気にしないで!というタイプだったから。
もちろん、頼ってくれて嬉しかったけど、そんなに体がしんどい状況なのか…と。

でも、ママと過ごした週の半分の実家通いはとても楽しかった。
お昼を食べながらテレビの内容にあーだこーだ言ったり、今日夜ごはん何が良いかなぁ〜何食べたい?とか話したり
まめちゃんのおかしな行動を2人で目撃して爆笑したり、私がママの部屋から古い少女漫画を引っ張り出してきて2人で読みふけったり。
退院して1週間ほど経つ頃には、パンパンだったママの足も元どおりに戻ってきて、ママは足を上げて振りながら、ほら!ぷるぷるしてるもん!とか言って足の肉を揺らしていました。
調子がいいときは自力でシャワーを浴びたり、1階のママの部屋に降りて自分で読む漫画を物色したりしていました。
そのころママが飲んでいた薬はものすごい量だったけど、大事なものは2種類。
オキシコンチンという痛み止めのベースになる薬と、それを飲んでもどうしても痛みがあるときに飲むオキノームでした。

そうして毎週実家に通う日々が続き、3週間くらい経った頃。

その週はどうしても外せない打ち合わせが会社であって、実家から会社へ向かい、また実家へ帰ってくる予定でした。
14時半ごろ実家を出て会社に向かいました。家を出るときの母は多少体調が悪かったのかベッドの上でウトウトとしていましたが、いってくるねと声をかけて家を出ました。
ママはいつも朝5時と夕方15時と夜23時に痛み止めのオキシコンチンを飲んでいたのですが、私が15時前には家を出なければいけなかったので会社に向かう道すがら「痛み止めちゃんと飲んでね!」とLINEしました。
ただ、そのLINEが既読になることはありませんでした。

夜21時ごろ、家に帰ると痛みにのたうちまわるママとなんとか頓服薬を飲ませようとするパパの姿がありました。
ママは痛みがひどすぎてまともに会話ができる状況ではありませんでした。
何を話しかけても返ってこない、ただひたすら痛みをなんとか逃せられないかとベッドの上の態勢を変えたり座ってみたり…
健常者でもわかるように書くならば、ものっすごい腹痛の波が来るときってあるじゃないですか。もう痛いし気持ち悪いしトイレの上でジッッッ…としているような。それがずっと続いているような、そんな様子でした。外から見るとなので実際はどうかわかりません。
パパに事情を聞くと、夕方18時ごろ帰ってくるとママはまだ寝ていたのでそのまま起こさないように一度買い物に家を出、帰ってきたらこの状態だったと。
私はピンと来ました。
15時の痛み止めを飲んでいないのではないかと。
ママに「15時の薬飲んだ?」と聞いても、返事は返ってこない。何度か問い詰めると「…わかんない〜〜〜」と、もう痛くて痛くて記憶を思い出す余裕すらない。
もう、ちょっと早いけど23時の薬を飲ませてしまった方がいいのでは、とパパに言って、パパが23時の痛み止めと水を用意してきました。
ママに薬と水を手渡そうとするも、辛くて痛くて飲み込むのもおっくうな様子で、なんとかパパが宥めすかして痛み止めを飲ませました。

やはり、痛み止めを飲み忘れていたようで、だんだんと状況は落ち着きました。

翌朝、ママはすっかり痛み止めが効いて、昨日はお騒がせしました…多分痛み止め飲み忘れてたんだと思う…と言っていたけど、その痛み止めっていったいどれだけ強いんだ。
痛み止めを飲まなかったら、あんなに会話もできないくらい、理性もなくなってしまうくらい、ママがママでなくなってしまうくらいの痛みを発するがんって一体なんなんだ。と思った出来事でした。

あとでパパに聞いたら、入院する前も痛み止めを吐き戻してしまった日があって、本来そういう場合は追加で飲んでもいいんだけど、飲んでいいのか悪いのか判断できず
そのまま眠ってしまった日があって、その夜中も大変な騒ぎになったと。そのときママは、いつまでこんなこと我慢すればいいの、と言っていたと。
私たちには弱音をまったく吐かず、いつも前向きだったママにもそんな夜があったのかと。がんとはそんなに痛いものなのかと思ってしまいました。