母のこと・3

ママが入院した翌日は金曜日でした。
会社へ行き、たまっていた仕事を片付けつつ上司に状況を報告しました。繁忙期も近づいていたので、もうしばらく不定期出社でご迷惑おかけしますが…と断りを入れ、仕事をしていると父からLINE。
夕方になって熱が上がってきており心配なので父は病院に宿泊するとのこと。ただ、実家には犬がいるので犬の散歩とご飯などをしてやらなければいけないので、急遽金曜日仕事が終わったら実家に戻ることにしました。

連日のバタバタで疲れていたのもあり会社から実家へはタクシーで向かいました(めっちゃ贅沢)。なぜか疲れている時に限って乗るタクシーの運ちゃんが饒舌なんですよねえ。
乗る距離が結構あったので運ちゃんには珍しがられ、なんやかんやで事情を説明したりしたので最後降りる時に「お母さんのお身体が良くなりますように」と声をかけてくれました。

実家に帰って誰もいない家の明かりをつけると不安そうな犬が飛びついてきました。軽く散歩に行ってご飯をあげ、私はどうしようかな、あんまり食欲もないなあ…と思いながら実家の冷蔵庫を開けると私の好きな銘柄の缶チューハイがしこたま準備されていました。
私はお酒が好きなので、昔から実家に帰る時は両親が気を利かせて缶ビール(自分たちは普段発泡酒しか飲まないのに本物のビール!)や缶チューハイを用意してくれていたのですが、
この1年くらいとある銘柄の缶チューハイに大ハマりしておりママにもそれを話していたので、父が別の銘柄のチューハイを買ってきてくれた時「はらぺこはそれじゃないの!◯◯ってやつがいいの!」と介護ベッドの上から父に指示していたのを思い出しました。
そして、ママが病院に行く直前に食べていたおかゆの梅干しや、少し何か飲みたいと言って一口、二口だけ飲んだ飲みかけの野菜ジュースが冷蔵庫に入っているのを見て、それまで我慢していた涙がブワッと溢れました。
こんなことは考えたくなかったけど、ママが無事にこの家に帰ってきて野菜ジュースの残りを飲めるのかどうか。
父が買ってきてくれたチューハイを飲みながら一人でワンワン泣いて、いつの間にかそのままリビングで寝てしまいました。

翌日土曜日は、弟と一緒に病院にお見舞いに行く約束をしていました。
弟は仕事の都合でこの数年遠方で暮らしているのですが、こちらに住んでいる遠距離恋愛の彼女がおり、ちょくちょくデートがてら帰ってきては実家にも顔を出していました。
この時も、もともと前から金曜日に有給をとって帰ってきて彼女とデートをし、土曜日には実家に顔出すよーという予定だったのですが、LINEで事情を説明してお見舞いに行こうという話になっていました。
ただ、金曜日はせっかく前々から計画していた遊園地に行くのに、ママっ子の弟に心配させるような話をして遊園地が楽しめなかったらかわいそうだなと思い、具体的な病状やここ最近のママの様子は話していませんでした。
金曜日の深夜、もう遊園地から帰っている頃をみはからってママの詳しい状況をLINEし、少し厳しい状態になっていることも伝えたのですが、いざ病室に入った弟は、ボロボロと泣き出しました。
ママはそんな弟を見て「ははは、なんで泣いてんの〜?」と笑いました。弟は「だってこんな状態だって知らなかったから…心配だもん…」と顔を真っ赤にして泣いていました。
最後に会ったのは3月に処置入院をして退院をした時で、その頃はかなり体調も良くなっていたのでご飯も普通に食べていたし、自分で歩き回っていたころです。たった1ヶ月前のことですが。
その時に弟がおみやげで買ってきたご当地のお茶漬けの素と名産のお菓子を、ママが「お茶漬けだとサラサラ食べやすいね〜このお菓子もおいしいね〜好きなんだよね〜」と食べていたのを覚えていたので今回もそのお茶漬けの素とお菓子を買ってきていたのです。
でも、もうその時の母にはお茶漬けどころかおもゆも食べる気力はありませんでした。

少し病室から席を外して、父と私と弟でカフェテラスに行き、父から状況説明を受けました。
腫瘍が腎臓にも及んでおり、腎臓から出血しているため血尿が出ていること。
よって腎臓自体が機能をしなくなり始めているので、ほとんどおしっこが作られていないこと。
そのため尿毒症になってしまい、体に溜まった毒素で高熱が出てしまっているのではないかということ。(吐き気もそのせい?)
尿毒症を改善する治療や処置は、もうママの体力では耐えきれないこと。
よしんば処置を受けられたとしても、それがママの根本的な治療にはならないこと。
尿毒症がすすみ体の中に溜まっていく毒素が心臓にまわってしまった場合、心臓は止まってしまうこと。
そうなってしまった場合、延命措置を望みますか?と先生から確認されていること。

延命措置を選択しても、ママの体の中にはすでにたくさんの腫瘍ができている。延命している間に根本的にそれを治せる治療ができるわけではない。ただ苦しい思いをする時間を延ばしてしまうだけ。
尿毒症になると、その進行に従って少しずつ、少しずつ意識がぼんやりしていき、最後は眠るような状態になるので本人に苦しみはありません、と先生は言っていたようです。
私たち3人は、ほとんど迷わず決断しました。

3人で病室に戻ると、ママは「3人で何話してたのー?」とカラカラ笑っていました。
私は「これからみんなで交代で病室番するから、シフト組みの相談だよ!」と返しました。まあママも薄々3人が何を話しているか…わかったと思いますが。
その後父は一度会社に行かなければならないので病院を出、私と弟で病室に残りました。
3人でたわいもない話をしていると、看護師さんが入ってきて「お身体を拭いたりケアをするので少しの間だけお外でお待ちください」と言われたので私と弟は病室を出ました。
病室を出ると、主治医の先生が待っていました。「すみません、少しだけお話させてください」と。(素晴らしいタイミングの配慮だ)

ナースステーション横の個室に通されると、主治医の先生は私たち姉弟に、「ご主人様(父)には既にお話しているのですが…」と、わかりやすく母の身体の状況を説明してくれました。
そして、いざというときの選択のことも。
「先ほど父からも先生からのお話は伺いました。3人で話して、自然に任せようと思っています。延命は、しません。」
先生は「うん、わかりました。では、今後はお母様のお身体ができるだけお辛くならないように、という処置をしていきますね。」と微笑みを絶やさず緩和ケアの説明もしてくれました。

お礼を言って病室に戻ると、すでにケアは終わっておりママはぼーっとしていました。
あたたかいタオルで身体を拭いてもらって、気持ちよかった〜と言っていました。
しばらくすると先生も病室にやってきて、今後の処置の説明をママにもしてくれました。
「緩和」とは口に出さないけれど、今ある吐き気、高熱に対してこのようなお薬を投与してみます。昨晩高熱が出た時に血液検査をしたので、どんな菌が悪さをしているか今調べています。その菌に効くお薬を入れますね。など。
ママもうん、うん、と頷きながら聞いていました。最後に先生が「それで大丈夫でしょうか?」と確認すると「とにかく、痛いの、気持ち悪いのは嫌なので…」とママは言いました。
先生は「そうですよね。私たちもできるだけそれが取り除けるように頑張りますね。」と言ってくれました。本当に丁寧で患者目線のいい先生だなあ…と思いました。

そうこうしていると夕方になり、父からLINE。
会社から家に帰ってきたけど、ママは大丈夫そう?と心配しているので、今のところ普通におしゃべりしてるし大丈夫だよ。と返しました。
ところがそれからしばらくもしないうちにママが「…なんか寒くなってきた」と言いだしました。
あれよあれよと言う間にママはガタガタ震え出し、これは高熱の出る兆候だ!と判断した私はナースコールを押しました。
すぐに看護師さんがきてくれて熱を測り、「体温が上がってきているので今夜も熱が出そうですね。もう解熱剤入れちゃいましょう」と解熱剤を投与し始めてくれました。
それ以外にできることはないので、私と弟は寒がるママをひたすら温めようと、家から持ってきたブランケットをママの頭に巻いたり(虫歯のほーたい、みたいな感じで)、手を握ったり、病院のタオルを追加して身体にかけたりとひたすら温めていました。

しばらくすると父が帰ってきたので、今夜も熱が出そうで解熱剤を入れてもらっていることを伝え、私と弟は家へ戻り、父は病室に宿泊となりました。
(ちなみに、このあとは悪寒がおさまり「暑い!!!」と言い出し父はママが寝るまでずっとうちわで扇いであげたそうです)

雑感

記憶が薄れないうちに母のことを書き留めておこうと思いつつ、やっぱりあの日々を思い出すのはとても重いことで、すっかり間が空いてしまいました

小林麻央さんが亡くなったというニュースを受けて、少し思うところがあったので。

治療法がよくなかったとか、早く手術してれば、とか一部で言われているけども
毎年検診を受け、麻央さんと同じ3年前に病気が見つかってすぐに手術をし治療に専念していた母をこの春に亡くした身としては、本当に残念ながら、現代ではがんに対する正解の治療法というのはないのだと思います。
いろんな治療法があって、そのうちのひとつが「手術」であり「化学療法」であり「放射線療法」であり、「民間療法」もそのうちのひとつと言って差し支えないのではないかと。

そこから後は、もはや運試しの世界に近いと思っていて。
選んだ治療法がその人に合っていてものすごく効果が出て寛解する人もいれば、いまいち効果が上がらない人もいる。
私の母は残念ながら後者でした。手術で原発部位を全摘したけど、結局周囲のリンパに転移しており全身へ広がり、それどころか全摘の後遺症で日常生活が不便になってしまった。
だけど手術なんてしなければよかった、とは思いません。
母が自分で病と向き合い、考え、選び、最後までやり通した治療法を否定することは、母の頑張りまでも否定してしまうことになる。
選択した道を最後まで歩ききった母に、「だからあっちの道行けばよかったのに」とは言えない。声をかけるならば「大変な道をよく歩ききったよね。お疲れさま」です。
正解がないのであれば、患者本人(とその家族)がいくつかの選択肢の中から自分が納得できる療法を選び、この治療法で自分はがんと付き合っていくのだと思えることが一番重要ではないのかなと思っています。

無念であることに変わりはないけども、麻央さんや家族の人たちが後悔していなければいいなと、ただの一般人だけど近い境遇を体験した身としては、思っています。

母のこと・2

薬飲み忘れ事件からママの体調はみるみる悪くなっていきました。(薬の飲み忘れが原因というわけではないと思いますが)
むくみがひいていた両足がまたパンパンに腫れてきて、歩くのも困難な状態に戻りつつありました。トイレだけはなんとか自力でトイレまで歩いていました。
貧血気味でぼーっとする、食欲がない、気持ち悪いという症状もあり、そんな時は病院で輸血してもらうと少し回復するようでした。この頃は年末まで続けていた抗がん剤の影響で赤血球が少なくなってしまっているからかな?と思っていましたが。

食欲がなくても、薬を飲むためには少しでも胃に何か入れてもらわないといけないわけで…私はおかゆの美味しい作り方をネットで検索し、1合分だけ炊いてみたのですが「食欲ないからあとで…」と水分だけとっているママ。
「じゃあ私がちょっと食べちゃおー」とママの横でおかゆを食べ始めると、「やっぱりママも食べたくなってきた」「美味しい」とおかゆを小1杯くらい食べてくれてとても嬉しかったのを覚えています。

そんな感じでおかゆ生活を続け、食欲も徐々に戻り普通のご飯も食べられるようになってきたある日の夜。
その日は夕飯にマカロニグラタンを作ろう!柔らかいし消化良いだろう!と思い立ち準備をしていたのですが、なぜかこの日に限ってホワイトソースを大失敗…
「ダマだらけになっちゃったーどうしよー」と台所で騒ぐ私に「ちょっとフライパン見せてみ、ママがやる!」というママ。
いやいや良いから、無理しないでベッドにいて!とお願いして、会社帰りのパパにレトルトのホワイトソースを買ってきてもらえるよう連絡。
結局グラタンが完成したのは21時頃で、いつもよりだいぶ遅い夕飯になってしまったのです。

今思うと、もともと病気になる前から胃腸が丈夫でなく、この頃もやっとおかゆじゃなくてスパゲッティや白いご飯を食べても大丈夫になったママに、遅い時間にグラタンなんか食べさせてしまったのが悪かったのかも…と後悔しています
これが私がママに作ってあげられた最後の食事でした。

翌朝、私は寝坊しました。(特に理由はない)
既に会社に行ったはずのパパからの着信で目が覚めました。「ママ体調悪いみたいだから、今朝もちょっと吐いちゃったし、ちょっと見てあげて」という電話でした。
ごめん寝坊しちゃったー!とリビングに行くと、ダイニングテーブルに座って吐きそうな気持ち悪さにじっと耐えているママがいました。
実はその次の日には外来の予約を入れていたので、1日辛抱して明日診てもらおうか…と話していたのですが、やはり尋常ではない体調の悪さだったのか、病院に電話して聞いてみるとママ。
ちょうど翌日の外来から主治医が変わることになっており、その電話が初めての新しい主治医の先生とのコンタクトでした。
大丈夫?私が先生に電話して伝えようか?と言ったのですが、自分で電話してみる。と病院に電話を入れるママ。
しっかりとした口調で症状を伝えると、先生から「明日まで様子を見てもいいけど、心配だったら遠慮せず来院してください」と言ってもらえてホッとした様子で電話を切りました。
このあとパパに会社を早退してもらい、帰ってき次第病院へ行くことに。

何はなくとも、昼の薬を飲んでもらわねばいけないので朝パパが会社に行く前につくったおかゆを温め直して茶碗1/3くらいだけ、梅干しで食べてもらいました。
そうこうしている間にパパが帰宅し、準備している間にママ嘔吐。胃の中にほとんど何も入っていなかったので、コーヒー色の胃液?のような、液体だけ。
でも吐いたらすっきりしたみたいで、少し顔色も良くなりました。

パパの運転する車で病院に向かい、処置室(ふだん輸血してもらうベッドのある部屋)で診ますので、と処置室に向かうと看護師さんたちにバタバタと案内され、では血液検査と処置が終わるまで外でお待ちくださいね。とパパと私は待合室に出されました。
15分くらいで再び処置室の中に呼ばれ、ママの寝ているベッドのそばにいくと新しい主治医の先生がいました。背が小さくて若々しい感じの、かわいらしく感じの良い女性の先生でした。
「いろんな複合的な要因があって、むくみや気持ち悪さなど身体がつらい状態になってしまっているので、一度検査入院という形で入院しましょう」と先生は言いました。
ママも、その方が安心だと判断したようです。

すぐに入院の手配がされ、病棟に案内してもらいました。ナースステーションのすぐ横にある個室しか空いてないとのことで、個室病棟でした。
じゃあ入院着に着替えてくださいね〜と看護師さんが着替えを持ってきてくれ、私がママの着替えを手伝いました。下半身のむくみがひどく、靴下を自分で脱がせられないので私がママの靴下を脱がせると「介護、介護(笑)」とママは笑っていました。

ひとまずこの日はパパも家に帰り、私も実家にいてもやることがないので自宅に戻り、翌日の金曜日は会社に行くことにしました。また土曜日くるね〜と声をかけて。

母のこと・1

私の母は今年4月15日に帰らぬ人となりました。
ちょうど3年前の4月にがんが発覚し手術、それから昨年末まで放射線療法や化学療法(いわゆる抗がん剤ですね)で病気と闘ってきました。
母のことはママと呼んでいたのでママ表記で書かせてもらいます。

あ、やばい
と思ったのは今年の正月でした。
台所に立つのも辛そうで、家族で元旦に近所のお寺に初詣に行ったときも、パパの腕をつかみながら、休憩を挟みながらやっとこゆっくり歩いていました。
何も知らなかった私と弟はスタスタお寺に向かって歩き、おや、パパとママがついて来ない、と振り返ってみたらそんな様子で、正直面食らいました。
だって、10月に会った時はいつもと変わらない様子で、大好きなワインだって飲んでたじゃないかと。
それでも、正月の食卓には例年と変わらないママのお雑煮と煮物が並んでいました。
 
3月の初旬、パパから連絡。
腎臓から膀胱へ尿を流す管が詰まってしまい、下半身のむくみが増大し歩けないほど。シャントを入れる手術のため入院をするとのこと。
つまり、腎臓から膀胱に人工の管を通して流れをつくり、むくみを取ろうということです。
入院は10日ほどで、退院の日、私も札幌で働いている弟も迎えに行くことにしました。
さて、迎えに行ったら病室にママの姿がない。
どこに行ったかと思えば、違う階に入院していたママの幼馴染の娘さんの病室で楽しそうにおしゃべりしていました…元気そうで何より。
ママは既に車椅子の操作に慣れきった様子で自分の病室に戻り、支度をして退院しました。
この入院の間は、Instagramに病棟から見える夕焼けと富士山の写真をアップしたり、比較的まだ何かをする余裕があったんだと思います。
家に帰ると、リビングの真ん中にデーンと介護用ベッドが用意されていました。
今はまだ足のむくみもあり、動き回れないのでレンタルで用意したとのこと。
正直この光景はちょっとショックでした。
つまり、要介護の状態になりつつあると。

その日は私と弟で夕飯を作り(私が肉じゃがをつくり、弟がサラダ、それから札幌で買ってきてもらったホッケ)、久しぶりの家族4人での夕食をとりました。
これが、パパ、ママ、私、弟、それから犬のまめちゃん、みんなで揃ってご飯を食べられた最後の日でした。

それから私はパパと相談し、勤め先にも了承を得て週の半分は実家に帰りご飯を作ったりママの身の回りの世話をすることにしました。
これからは私が週の半分実家に帰るから、とLINEすると、ママから、すまないねぇ〜、でも体が動かないもんで…お願いします!と返ってきました。
これにもショックを受けました。
ママは、今まで私が◯◯しようか?と言っても、ハラペコが大変だからいいよ!ママのことは気にしないで!というタイプだったから。
もちろん、頼ってくれて嬉しかったけど、そんなに体がしんどい状況なのか…と。

でも、ママと過ごした週の半分の実家通いはとても楽しかった。
お昼を食べながらテレビの内容にあーだこーだ言ったり、今日夜ごはん何が良いかなぁ〜何食べたい?とか話したり
まめちゃんのおかしな行動を2人で目撃して爆笑したり、私がママの部屋から古い少女漫画を引っ張り出してきて2人で読みふけったり。
退院して1週間ほど経つ頃には、パンパンだったママの足も元どおりに戻ってきて、ママは足を上げて振りながら、ほら!ぷるぷるしてるもん!とか言って足の肉を揺らしていました。
調子がいいときは自力でシャワーを浴びたり、1階のママの部屋に降りて自分で読む漫画を物色したりしていました。
そのころママが飲んでいた薬はものすごい量だったけど、大事なものは2種類。
オキシコンチンという痛み止めのベースになる薬と、それを飲んでもどうしても痛みがあるときに飲むオキノームでした。

そうして毎週実家に通う日々が続き、3週間くらい経った頃。

その週はどうしても外せない打ち合わせが会社であって、実家から会社へ向かい、また実家へ帰ってくる予定でした。
14時半ごろ実家を出て会社に向かいました。家を出るときの母は多少体調が悪かったのかベッドの上でウトウトとしていましたが、いってくるねと声をかけて家を出ました。
ママはいつも朝5時と夕方15時と夜23時に痛み止めのオキシコンチンを飲んでいたのですが、私が15時前には家を出なければいけなかったので会社に向かう道すがら「痛み止めちゃんと飲んでね!」とLINEしました。
ただ、そのLINEが既読になることはありませんでした。

夜21時ごろ、家に帰ると痛みにのたうちまわるママとなんとか頓服薬を飲ませようとするパパの姿がありました。
ママは痛みがひどすぎてまともに会話ができる状況ではありませんでした。
何を話しかけても返ってこない、ただひたすら痛みをなんとか逃せられないかとベッドの上の態勢を変えたり座ってみたり…
健常者でもわかるように書くならば、ものっすごい腹痛の波が来るときってあるじゃないですか。もう痛いし気持ち悪いしトイレの上でジッッッ…としているような。それがずっと続いているような、そんな様子でした。外から見るとなので実際はどうかわかりません。
パパに事情を聞くと、夕方18時ごろ帰ってくるとママはまだ寝ていたのでそのまま起こさないように一度買い物に家を出、帰ってきたらこの状態だったと。
私はピンと来ました。
15時の痛み止めを飲んでいないのではないかと。
ママに「15時の薬飲んだ?」と聞いても、返事は返ってこない。何度か問い詰めると「…わかんない〜〜〜」と、もう痛くて痛くて記憶を思い出す余裕すらない。
もう、ちょっと早いけど23時の薬を飲ませてしまった方がいいのでは、とパパに言って、パパが23時の痛み止めと水を用意してきました。
ママに薬と水を手渡そうとするも、辛くて痛くて飲み込むのもおっくうな様子で、なんとかパパが宥めすかして痛み止めを飲ませました。

やはり、痛み止めを飲み忘れていたようで、だんだんと状況は落ち着きました。

翌朝、ママはすっかり痛み止めが効いて、昨日はお騒がせしました…多分痛み止め飲み忘れてたんだと思う…と言っていたけど、その痛み止めっていったいどれだけ強いんだ。
痛み止めを飲まなかったら、あんなに会話もできないくらい、理性もなくなってしまうくらい、ママがママでなくなってしまうくらいの痛みを発するがんって一体なんなんだ。と思った出来事でした。

あとでパパに聞いたら、入院する前も痛み止めを吐き戻してしまった日があって、本来そういう場合は追加で飲んでもいいんだけど、飲んでいいのか悪いのか判断できず
そのまま眠ってしまった日があって、その夜中も大変な騒ぎになったと。そのときママは、いつまでこんなこと我慢すればいいの、と言っていたと。
私たちには弱音をまったく吐かず、いつも前向きだったママにもそんな夜があったのかと。がんとはそんなに痛いものなのかと思ってしまいました。

私とフジロック

フジロックに初めて行ったのは2010年、大学3年生のとき(ああ歳がバレる)。
ライブハウスで知り合った友達に誘われて、洋楽に疎いくせにノリで前夜祭から4日間行きました。
しかもあのころ全盛期だったmixiフジロックコミュニティか何かで車に乗っけてくれる人を探し、見知らぬ青年の運転する車に乗って行った大学生女子2名。若いってこわい。何もなかったけど。
なんせ7年も昔の話なのでほとんど細かいことは覚えてないですけど、徒歩15分くらいのスキー宿で相部屋雑魚寝しました。目の前にコンビニ…というか商店があったのは覚えているんですが、なんて名前だったかなぁ。コーヒーが飲み放題の宿でした。
その年一番記憶に残っているのが深夜のROOKIE A GO-GO。大学の友達が出演していたので見に行きました。めっちゃおもしろかった。
友達のバンドを見た後、また別の友達に会ったのですが、彼は同い年の大学生ながらいろんなライブハウスでバンドのスチールやムービーの撮影をしており「これから俺がいつも撮影してるバンドがルーキーに出るから見てってよ!」と言われ、ほーん…と興味半分、眠たい半分で見たのがまだ当時高校生だったとあるバンドでした。
正直そのときのライブの内容全然覚えてないですけど、3年後そのとあるバンドのマネージャーになるとは2010年の私は想像もしていなかったであろう。

時は流れて大学を卒業、就職してしばらくは上記の通り音楽関係の会社に入ったので、夏フェスはプライベートで行くというより仕事で行ってました。それはそれで楽しかったですけどね。要するに仕事の繁忙期なので、フジロックにはしばらく行ってませんでした。
そして2015年、マネージャーをしていたバンドが活動休止し、暇だしどうすっかなーというタイミングで高校の友達から「今年のフジ行かない?」と誘いをいただき2回目のフジロック

この頃私は運転免許を取得していたので(ほぼ毎日ハイエース乗り回してた)、レンタカーを借りて友達と2人で苗場へ。そして初めてのキャンプインフジロックでした。
暑かったとしか言いようがない。(朝)
相変わらず洋楽には疎かったのですがこの友達と事前にMUSEの映画を見に行ってたのでMUSEはすげー感動しました。かっこいいーどうやって音出してるのこれー
deadmau5は全然知らなかったけど踊れすぎて漏らした。FOO FIGHTERSはデイヴの玉座が人力と聞いてスタッフの汗と涙を想像して泣けました。あと骨折動画を前方の大型モニターにご丁寧に映してくれました。
(感想がだいたいGREEN STAGEのヘッドライナーしかないところに私の疎さをお察しください)

そして翌年2016年、転職して準備万端でいきなり有給取って全日程参加。
しかし2015年より何見たか覚えてない…BECKが想像よりかわいいおじちゃんで萌えました。
3日間の内容よりも一緒に車をシェアして行った友人カップルが車内でケンカ始めてスーパー気まずい復路だったことしか覚えてません。

というわけで今年も全日程参加しようと思っております。
なんと!7月26日で会社辞めます!ヤッター無職がフジロックに行くぞ!!
今年はこのブログもあるのでできるだけ写真いっぱい撮ってメモしようー。